真の喜び

「その時、見えない人の目は開かれ、聞こえない人の耳は聞こえるようになる。
その時、足の不自由な人は、シカのように飛びは走り、口のきけない人の舌は喜び歌う。それは、荒野に水がわきいで、さばくに川が流れるからである。

主にあがなわれた者は帰ってきて、その頭に、とこしえの喜びをいただき、歌いつつ、シオンに来る。彼らは楽しみと喜びとを得、悲しみと嘆きとは逃げ去る。(イザヤ書35章5,10)

この聖書の箇所は、救われた魂の喜びと、神によって罪から解放され、感謝し賛美している姿である。また、やがて成就する神の世界への待望とも言え、美しく、はつらつと、希望と喜びに満ちあふれたこの誌は、大予言者イザヤの心の中をありありと語っているとも言える。

この箇所は、未来の遠い世界の出来事として理解していたのだが、この頃、聖霊の特別な働きにより、この世において体験できうる出来事として受け止め得るようになった。

わが教会が、心を一つにして祈りだしてから、色々と不思議な事が起こりだしてきた。

離婚寸前の夫婦が和解し、病人が癒され、孤独の人が解放されていく姿を見ていて、このような出来事が長続きし、神に栄光が帰されるように祈る者である。

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敵を愛せよ

ある時、年配の婦人がアブラハム・リンカーンにこう尋ねたそうである。
「息の根を止めて当然、というような敵のことを、あなたは、どうして優しくお話になれますの?」


するとリンカーンが答えていわく
「奥様、敵を味方にしてしまうことが、息の根を止める事になりはしないでしょうか?」


当時の大統領選挙で、リンカーンと最も争って落選した男が、リンカーンの事を、田舎者でかっこ悪く、教養もなく、マナーを知らない男と、ぼろくそにけなしていた男の頭脳に惚れ込んで、リンカーンはあえて彼を副大統領に指名し、仲間達をあっと驚かせた。


この副大統領、リンカーンの身となり頭となって命がけで働いたと言われている。リンカーンが暗殺された時の副大統領の手際の良い処置、その後の処理の素晴らしかった事が今でも語りぐさとなっているが、


リンカーンが聖書の御言葉を瞑想し、御言葉に忠実であったことは、なんと多くの人々に忘れ去られてしまっていることか。


「敵を愛し、迫害する者のために祈れ。」マタイ5:44

「もし、あなたの敵が飢えるなら、彼に食わせ、かわくなら、彼に飲ませなさい。そうすることによって、あなたは彼の頭に燃えさかる炭火を積むことになるのである。」ローマ12:20

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アブラハム・リンカーン

アブラハム・リンカーンは、ケンタッキーの貧しい丸木小屋に生まれました。


貧しい家には、大切な聖書が1冊あるのみでした。母親のナンシーは、とても優しく信仰の厚い人で、夕食がすむと「エブ、さあここにいらっしゃい、今日はどこからだったかしら」と聖書を開きます。


そしてアブラハム・リンカーンは聖書の話を、母の膝にもたれて聞くのが何よりも楽しみでした。


彼女の限りない愛情はリンカーンの心を育て、胸の奥底深くたくわえられ、やがて清らかな泉となり、彼の性格・人格形成の大きな基となりました。


だが、リンカーンが9歳の時、地方の流行病にかかり倒れてしまいました。彼女は臨終の際、エブの頭に手を置いて、「お父さん、お姉さんによく仕え、隣人を愛し、神様を畏れなさい。」と言うのが最後の言葉でした。


さて、彼の胸にまかれたこの種を育てたのが、第2の母、サラでした。彼女は先夫との3人の子供も連れてきたので大変忙しかったのですが、リンカーンの垢を洗い流し、髪をとき実子と変わりなく愛し、夫の反対をなだめて読書を教え、巡回学校にも通わせました。


こうした環境の中から、ついに大偉人リンカーンが成長したのです。神様はリンカーンが偉大なる人物になるために、聖書と貧困と2人の慈母を与え給うたのでした。

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うつ病から解放される道

この頃、若い青年男女が、うつ病にかかっている姿をよく見かける。うつ病という病気は、老人に起こりやすい病気で、生きているのが空しくなり、脳の働きが鈍り、生理的に異常を示す病気のことなのだが、どうも若くてピチピチしているはずの子供達までが、ボーとしている。


ここロスのダウンタウンを歩いている人々の顔を見ていると、子供から老人に至るまで、生きているのか死んでいるのか区別がつけられない程、怪しい顔つきの人々が多くなってきた。


心が空しく満たされていない時、人間は何を見ても面白くなく、おいしいご馳走を前にしても食べたくないし、食べても文句がでる。美しい花を見て、慰めにならないどころか、花さえも邪魔くさくなる。


うつ病になるのは、嫉妬深く、心に敵意が渦巻いていて、自分の内側にある憎しみを吐き出せず、抑えている為、ストレスが溜まってしまうのが原因であろう。この、うつ病を抑える為に、調合された薬を飲まされて、一時的に気分が落ち着く方法をとることが一般的である。


実は、こういう種類の病気から完全に解放される方法は、聖書に示されているのである。イエス・キリストによって罪を取り除いていただき、聖霊に満たされることである。


「神が光の中にいますように、私たちも光の中を歩くならば、私たちは互いに交わりをもち、そして、御子イエスの血が、すべての罪から私たちをきよめるのである。」(ヨハネの手紙第一 1:7)

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山は動く

イエスは言われた、「よく言い聞かせておくが、もし、からし種一粒ほどの信仰があるなら、この山に向かって『ここからあそこに移れ』と言えば、移るであろう。このように、あなたがたにできない事は、何もないであろう。」(マタイ17:20)


「この山に向かって、動き出して海の中に入れと言っても、そのとおりになるであろう。また祈りのとき、信じて求めるものは、みな与えられるであろう。」(マタイ21:21,22)


このキリストの言葉は、実際に起こり得る事なのだろうか?
山が動いて海の真中に入ったという話を聞いた事があるだろうか?


世界には地層の変化で海が山に、山が海になったという論説や実証がないわけでもない。ここで言う「山」とは、困難や不可能を象徴して使われている言葉である。神は人間の目で見て「不可能・困難に思える山々を信仰の力で克服せよ!」と勇気づけておられる。


この山に向かって「ここから、あそこへ移れ」、「動き出して海の中に入れ!」と命ぜよとおっしゃっておられる。


困難という山々や問題は、神があなたを強め祝福するために置かれたものである。サタンは、困難という問題を通して、神や人や環境に対して不信仰と不平をもたらし、あなたを死に追い込もうと、いどんで来る。


だが、神を味方にして信じて祈り抜く時、悪魔の策略を見破り、やがて、山が吹っ飛んで行き、海の中に入って行く事を体験させられるであろう。


神は、「からし種ほどの信仰と祈り」によって、あなたがこの山を動かすことを望んでおられる。

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孤独からの開放

あるパーティーで、白い上衣に、いろいろなサイズの「カギ」のアクセサリーをキラキラさせ、厚ぼったい化粧をしているユダヤ人の老夫婦と隣り合って座ることになった。


見るからに肉づきが良くて、貫禄のあるこのご婦人に話しかけてみたいのだが、何から話を切り出して良いのか分からず、もたもたしていると、彼女のほうから話し出してきた。


よく見るとこの方、両手とも震えておられ、コーヒーの持ち上げ下げにも不自由そうに見えた。
話しているうちに、この方は、手足が不自由で、車の乗り降りや買い物など実に大変なのだという事が分かった。


2人の娘達も結婚して近くにいるのだが、いつの間にか2人とも忙し過ぎて手伝いに来てくれなくなったと、寂しそうに語った。


「昔は昔、今は今、自分は母親が死ぬまで毎日世話をしてきたのだが、時代が変わってしまったのだから娘達の立場を理解して、邪魔にならないようにしている。娘達から電話もかかってこないし、自分も邪魔者扱いされたくないので、電話もしなくなった。」と寂しげに言った。


ふと、アクセサリーのカギが気になった。
「誰か、このカギを使って私の心の寂しさを満たしてくれ!」とでも叫んでいるかに聞えた。


寂しさと孤独から完全に解放される唯一の秘訣は、「神のふところ」に抱かれることである。神は、貴方から遠い所におられるのではなく、貴方の「最も近い所」にいつもおられる。


貴方の息を創造し給うた神は、貴方の「一番近い所」におられるのです。

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瞑想

最近、祈りについて瞑想していると、ふと霊界が目の前に開かれて来たような思いがした。

人間、誰しも祈りたい時がある。この祈りの心とは、いったいどこから発生して来るものなのかと、分析してみて分かったことは、神様の方から人間へ語りかけたいという、親子の引力のようなものであることに気がついた。

というのは、人間が造られたとき、
「主なる神は・・・命の息をその鼻に吹きいれられた。」(創世記2:7)

つまり、神は御自身の霊を人間にのみ吹きかけられた。言い替えれば自らの一部を、我々、人間に分け与え給うたと言えよう。

その親子関係をつなぐきずなが、「祈り」ではなかろうか。

祈りとは、神と人間との唯一の語り合いの瞬間なのだ。

「わたしたちが神に対していだいている確信は、こうである。すなわち、わたしたちが何事でも神の御旨に従って願い求めるなら、神はそれを聞き入れて下さるということである。」(ヨハネ第一 5:14)

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世の光

がん患者なら誰でもこの怖さを知っています。それでも沸き起こる不安を制圧し、いろいろ精神的なトリックを使って、じっと我慢しようとしました。ところが、もう怖いなどというものではありません。立ちはだかるようなこの恐怖の前には、理性も木っ端みじんでした。

私は教会にはきちんと出席し、3人の子供を日曜学校に行かせているという点では、確かにクリスチャンでした。しかし、自分が単なる習慣からそうしていることを自分自身よく知っていましたし、実のところ、ナザレのイエスは本当に神なのかどうか?という質問に真剣に取り組んだ事は、一度もなかったのです。友達に「信仰の決断」について教えられた事を思い出し、「よーし、やってみよう。キリストが神であることを今、信じる」」。

私は、物事を万事理屈で割り切ろうとする自分のやり方を思い切り捨ててしまったのです。するとどうでしょう。本質的な「自分」というものが、どこかへ「スー」と消えてしまったではありませんか。信じると決心した瞬間、何か新しい、全く神秘的なものが私の内に広がって行くのを覚えました。「自分がどことなく違う人間になったな」と初めて気付いたのは、入院中のことでした。あれ程、恐れていたガンも、以前なら注射の針が死ぬほど怖くて身震いしていたのに、今は何一つ怖いと感じなくなっていました。

ある朝、目が覚めてみると、不思議な輝く光に照らされていました。ふと「イエス様ですね」。と尋ねると、一瞬にして身体中が暖かくなり、はちきれそうな喜びが湧き上がってきて、ガンから癒されたのでした。(ある人の証しより)


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成功する女性の五大条件

かつてのホワイトハウスの式典儀式行事の責任者で、現在、多くの企業のマナー・ディレクターでもあり、又いくつもの肩書きを持ち、いろいろな側面をこなし、妻として母としても見事に役割を果たしていくボールドリッジ女史が、成功する女性の五大条件を次のように語っております。

①女性が仕事で成功する鍵は、男性の3倍働くこと。
②女性の特色を生かす、つまり女性独特の感覚や魅力を100%生かすこと。
③マナー
④ユーモアのセンス
⑤外国語を習得し、外国の歴史を学ぶこと

凡人には、ほど遠いような、なかなか大変な条件ですね。でも忙しい中にあって、妻・夫・親子のハーモニーがちゃんと取れ、波長、歩調のうまく合っている家庭はフラストレーションも少なく、離婚を考える暇もなく、明日に向かって前進している率が多いとの事です。

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ファニー・クロスビー

美しい数々の賛美歌を次々と生み出していったファニー・クロスビーは、1820年ニューヨークの貧しい家に生まれ、生後6週間で失明してしまいます。

「私が盲目になったのは、医者の側では失敗だったかも知れませんが、神の側では失敗ではありません」と言って彼女は盲目のハンディを乗り越えていきます。

やがて彼女は、メソジスト教会の熱心な会員となり、数々の美しい賛美歌を生み出していき、全部で5千余りの賛美歌を作ったといわれております。

クロスビーの作品は、日本版の聖歌と賛美歌にも沢山のっております。

十字架のかげに 泉湧きて いかなる罪も きよめつくす
おらせたまえ この身よ主よ 十字架のかげに とこしえまで 
(聖歌396)

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